宮城県南三陸町お見舞い訪問1

美しい南三陸海岸 霊峰 田束山から歌津湾方面を
美しい南三陸海岸 霊峰 田束山から歌津湾方面を

 

 

 2011年3月11日の東日本大震災で被災されました皆様にお見舞い申し上げます。

  

 6月15日から17日にかけて、今回の大震災にあわれた、南三陸町はじめ、登米市、一関市の親戚や友人をお見舞いしてきました。これはその時の記録です。

 特に、地震と大津波に被災した南三陸町(歌津地区)は、生まれてまもなくから中2まで育った私の故郷でもあります。

 

 実家はすでにありませんが、壊滅的な被害となった伊里前や周辺の集落には友人・知人がおり、震災発生から気が気ではありませんでした。今回、駆け足ではありましたがお見舞いの旅にでかけることができました。

 現地を訪れて、お見舞いするとともにそれぞれの方から震災時の様子や現在の状況をお聞きしました。

 

 記載するのも大変辛いものがありますが、今後の復興を願って、表現が充分にできないと思ってはおりますがあえて記載させて頂きたいと思います。 

 文字の奥にあるものまで、斟酌して頂ければ幸いです。

 

   

 行程

  6月14日深夜 自宅出発  

  6月15日早朝 東北道、(宮)登米市等経由 (宮)南三陸町(志津川>歌津)

  6月15日霊峰「田束山」お参り、歌津小、中学校、「マルエー」さん、

     「平成の森」他、>(岩)東岩井郡、(宮)栗原市(泊)

  6月16日(宮)登米市、(岩)一関市、(宮)栗原市(泊)

  6月17日(宮)柴田郡  >> 東北自動車道 自宅

 

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 志津川地区

  登米市から県境峠のトンネルを過ぎると、南三陸町志津川地区になります。

  トンネルを出てしばらくすると、山間に沿って狭い平地があらわれ、市街地

  の方へ続いていきます。

 

  こんな奥までと思うとところまで津波の残骸があり、延々と続きます。

  震災後100日近くになるのにまだまだ片付けは終わっていません。

 

  さらに市街地に入ると、見渡す限り津波の残骸で、被害の甚大さを物語って

  います。 TVで放映される防災センターも無残な状態です。

  とても車をとめて写真を取る気にはなれません。

  

  被害地の真中、瓦礫の中を通る国道45号線を走って歌津地区へ向かいます。

  この国道も被災時からしばらくは通れなかったところで、

  橋は震災後に自衛隊が仮設復旧したもの、、

 

    チリ地震の時にも大きな被害を受けたところで、当時、私は隣の歌津町に

  住んでいました。 またもや同じような大被害(それ以上か)に悲しみを超

  えて怒りすら覚えてしまいます、、、、、、、、

 

  8/30追記:

  一年ぐらい前から2度程、ネットでレコード針を購入した「朝緑さん」は

  どうされたか心配をしております。 

  購入時のメールで、チリ地震津波の事も話したり、歌津状況などのお話を

  させてもらいました。 どうかお元気で、、

    (2014/7/4 朝緑さんから連絡を頂きました。お元気とのことでした)

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 歌津地区

  45号線を北上、その昔、何度も通った道ではあるが長く感じる。

  途中の平地ではこんな所までと思えるところも被害にあっている。

  ひとやま、ふたやま越えて下ると歌津地区(伊里前)である。

  海岸の上に作られていた大橋(バイパス)は、落ちてしまって無い。

  歌津地区一の商店街のある伊里前地区は壊滅状態である。

 

  被害の甚大さをこの目で確認したこと、早朝であることから、

  まず霊峰「田束山」に先にお参りすることにした。

  市街地と反対方向に進むが、津波のつめ跡はいたるころに散乱、、

  

  しばらく山を登って、さらに歩いて展望場所に到着。

  自衛隊の通信隊の車が2台、連絡用のアンテナが立っていた。

 

  眼下には、大きな被害があったところも見えますが、何もなかった

  ような海と静かな南三陸の岸辺が続いています。 

  お参り後、市街地へ戻り、小学校、中学校へ。

  (私が通学していたころは、木造校舎でほぼ同じ場所にあった)

 

  小学校の校庭の半分は仮設住宅にわりあてられている。

  (学校はすでに始まっており、生徒の姿もみえる)

  中学校(非難場所になっている)で、地元のおばさんに聞き、

  今回の訪問先である総合衣料の「マルエー」さんの避難先へ向かう。

 

   お話によると、つい先日までここの非難場所に居られたが、身内が

  住んでいた近くへ団地に引越しされたとのことであった。 

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  ↓ 気を取り直して記録した写真 三陸町歌津地区 伊里前  

 

お聞きしました(1) 吉野沢団地にて

 

 床上50CMぐらい浸水した小学校より高い場所にある歌津中学校

 の側を通って団地に向かいます。

 団地の中央の東側は多くの一軒屋がありますが、西側はまだ空き地が

 残っていたらしく、ここには今回の震災用仮設住宅が建っていました。

 

表札が見つからなかったので不確かでしたが、広い庭を通って玄関まで
いくと、懐かしいお顔が見えました。

お見舞いの挨拶もそこそこに、応接間に通して頂きました。

90歳になるおじさんもカクシャクとしていて、店主教行さんご夫妻、

ご子息とも皆さんお元気でした。

 

奥さんのお話によると、震災当日は、お店(兼自宅)にいたが、まず、

おじいさんと息子さんを避難所(公民館)にいち早く向かわせ、ご本

人は取り急ぎ大事なものを持ち出そうと思ったが、2階に上がるのは

危険と判断し、とりあえず逃げたとのこと。

もし2階に上がっていたら、間に合わなかったかも知れないとのこと

 

おじさんは酸素ボンベの手車を引きながら、孫と一緒に逃げたそうです。
公民館から小学校さらに上の中学校と逃げたようです。

ご夫婦は車で避難したとのことですが、とっさの事で、一瞬、海に向かって

走り出してしまったとのことでした。

 

中学校へ避難してからは、避難所暮らしが始まり、つらかったようですが、
親族が以前使用していたこの家を皆で清掃し、つい先日避難所から荷物等を
持って引き上げてきたとのことでした。
(水は今でも塩分が多く、直接は飲めないようです)

 

伊里前の商店街にあった、自宅兼店舗は土台を残すだけで跡形もなく、

多くの商品や家財等はすべて津波に呑み込まれていってしまったとのこと

でした。

 

避難所になった体育館は、電気もなく、水も無く、連絡のための

通信手段もなく、雪の降る季節なのに暖房もなく、大変の思いをしたようです。

 

奥さんは、調理師の資格を持っていたこともあり、避難所では皆さんと協力

して「炊き出し」等のお世話をその先頭に立ってやっていました。

また、避難所等でのネームの縫い付けや補修などのため、個人的にミシン等の

準備もしているとのことでした。

活動の様子はボランテアと一緒に撮った写真が物語っていました。 ご本人は

何もしていないと話しておられましたが、、、大変なことです。

 

店主は、辛い、苦しい事が多い中、よかったこともあったと語っています。
それは、天皇陛下、妃殿下に慰問して頂き、直接お話ができたこと。
さらに、多くの芸能人、スポーツ選手、著名人に激励にきて頂いて、
いることですとのこと。

 

いろいろな方の慰問活動が、いかに被災地の人に勇気を与えているか

を知ることができました。

 

また、震災前の11月6日発行「三陸新報」のに、写真入でお店の紹介を

載せてもらたばかりでしたが、津波により記念の写真も無くなってし

まったとのこと。

最近になって、新聞社にお願いして再度写真を頂いたとのこと。


おじさんとおばさんの勲章受賞時の写真も流されたが、写真屋さん

にネガが残っていたので、最近焼付けしてもらったとのことでした。

 

お店で販売していた「南三陸」のロゴ入りジャンパーは、町職員や常連客

の口コミで人気になっていたが、震災後は、各地から訪れるボランティアや、

関係者から取り寄せ希望の問合せが寄せられているとのことです。 

 

南三陸町観光協会や商工会の副会長、町議等を歴任している店主は家族の

協力の下、避難地で「マルエー」をお店を復興させるべく、すでに準備を

開始しているとのことでした。 

 

一日も早く営業を再開できることを願い、また、応援をしたいと思います

 

 

以前の店舗にて、売れていた2着  (震災後に焼き直していただいた写真)。 後ろに代々のお雛様が飾られている貴重な写真ですとのことでした 
以前の店舗にて、売れていた2着  (震災後に焼き直していただいた写真)。 後ろに代々のお雛様が飾られている貴重な写真ですとのことでした 

 

 

お聞きしました(2)(平成の森にて)

 

 歌津地区の中心である伊里前を過ぎてまもなく、高台に2010年に

 オープンした「平成の森」があります。
 潮風球場や多目的球場、体育館などがあり、研修室、レストラン等
 を配置した立派な施設です。

 

 今はここは、被災した方々の避難所になっており、南三陸町の歌津

 総合支所も仮設置され住民サービスを行っていました。

 できることの一環として、わずかではあるが、町に義援金を送るた

 め、支所をおとずれました。


 狭い事務スペースではあるが、10人以上の方が町の事務を担当して

 いました。地元の方以外に、他県からの応援と思われる方も働いて

 いました。


 昔、この伊里前に住んでいたことを告げ、義援金を支所で預かって

 もらえることになりました。

 

 奥で事務を執っていた方から
 「何年のお生まれですか?」
 「S.xx年です」
 「そうですか、私の姉と同じですね ○○ですがご存知ですか?」
 「そうですか、○○さんですか、よく覚えております。 嫁いだと聞

 いておりましたが、お元気ですか」
 「幸い、高台に家があり、無事でした」
 「それは、良かったですね。 宜しくお伝え下さい」
 「わかりました、帰ったら伝えます。」

 

 「他にどなたかおりますか?」と職員の方
 「大勢の同級生がおりますが、この近くでは△△さんがおりますが

 どうしてますか」

 「△△町議ですね、責任者をしているので、今ここにいると思います
  ちょっとまってて下さいね。連絡してみます。」

 「町議をされていたのですか、知りませんでした、ありがとうござい

 ます。」

 

 

  しばらくして-------------

 

 「ようぉ!、」と及川さんが現れた。何十年ぶりのことか、、
 立話後、事務所の方へまわってあらためてご挨拶。
 丁度、瓦礫の撤去作業から戻ってきたところとのことでした。

 

 

 

お聞きしました(3)(平成の森にて)

 

 及川さんは、この「平成の森」の自治会の会長を仰せつかって、 被災者のケア

 はもちろんのこと、多くのボランテアや支援企業、行政との窓口や復興作業など

 を行っていました。

 

 震災当日、着の身着のままこの高台に逃げ、その後そのままここに居るとのこと

 で、自身も自宅の他、何箇所かにある建物等のがすべて流された。
 言葉には出さないが、悲しみを乗り越えながら、被災者のケアや復興作業に懸命

 に取り組んでいる。

 

 あの日、着の身着のまま高台であるこの「平成の森」に避難したときから、毎日

 が激動の人生ドラマだと言う。
 無事を喜びあう人、悲しみにくれる人、安否を尋ねる人。
 また、電気もなく、水もなく、食料も尽き、また、外部との連絡もつかず、完全

 に陸の孤島となってしまった。

 

 震災から4,5日経ち、食料が底をついた頃、米軍のヘリコプターが初めて着陸し

 たとのこと。
 降り立った兵士に「ハングリーとウォター」の片言英語が通じたという。その

 後、海上に現れた戦艦(?)から、ヘリコプターで大量の支援物資が届いた。

 正直言って、これで命が延びたと思ったと彼は話す。

 

 志津川方面からの45号線も何とか通れるようになり、各地からのボランティア、

 専門家、自治体等多くの方の支援でここまでやってこれていると言う。

 

 暫く前になるが、ANAのご尽力により、被災者をお風呂へいれることができて、

 非常に良かったとも話す。
 水は、海水がまじり塩分が高く、使用できないので、隣の登米市から毎日運搬し

 てもらっていると言う。

 

 写真の車両に「お湯」とあるのはそのようなことであるが、実は、飛行機の機体

 を清掃するために使うもので、大量のお湯を沸かすことができ、そこで沸かした

 お湯を湯船にいれるとのこと。 
 毎日、人材の派遣と車両等の提供をして頂いており、大変感謝しているとのこと

 であった。他にもいろいろお聞きしました。


 とにかく被災者のケアが大切だと、いろいろな事を計画しながら、引き続き頑張

 るとのこと。

 

   ご健康と一日も早い復興を祈って、お別れする。

 

「平成の森」を出発し

 

 「平成の森」駐車場で、ボランティアの方々がお弁当を食べていたので、私も

 「おにぎり」の昼食をとることにした。
 歌津地区の他の海岸や集落を回って帰ることにした。


 綺麗な砂浜があり海水浴でも知られる長須賀の海岸である。

 いたる所に震災のつめ跡が残る中、やっと海岸が見えるところに着くが、樹木や

 電柱がなぎ倒され、家屋等流されている。

 漂着物のあり、波除のブロックなども破壊されている。
 空も海も青いが、砂浜へ出るのも大変だ。


 道路際にかろうじて車を止め、写真を撮り、さらに先の岬に行こうと思ったが通

 行止め、そこから迂回して45号線に戻ることにした。

 いたるところに入り江と集落があるが、どこも壊滅的な打撃をうけている。 

 家は残っているが1階が浸水しているところも多くある。

 高台の家だけがなんとか残っているという感じである。

 

 復興はまったく進んではいないのではないかと思うくらいであるが、この時は多

 くの作業員が片付けの作業にあたっていた。
 うる覚えであり、しかも状況も変っているので、直ぐには思い出せなかったが

 「名足」の集落だと思う。
 多くの同級生がいたところで、思いがこみ上げるが、止まっていられない。

 臨時に作られた細い道路を通らせてもらい、やっと45号線に出る。

 

 その後、来たときとは反対に、歌津地区の伊里前、志津川地区の南三陸町に別れ

 を告げて登米市に戻る。

 

  (宮城県登米市から岩手県東磐井郡2箇所をまわり、宮城県栗原市で

   宿泊、翌日、登米市の実家と叔父さん宅、その後、岩手県一関市を

   訪問、翌日、宮城県富谷町で同級生宅を訪問する。)

 

 ↓ 南三陸町写真

お聞きしました(4)(仙台近郊 富谷町にて)

 

南三陸町訪問のあと岩手県の親戚をまわり、最後に東北道を泉インターで降りて
仙台近くの富谷町に立ち寄りました。
南三陸町(歌津町)出身の同級生Kさんがいるからです。

 

この富谷付近は内陸で、強い地震ではあったが、幸い被害はなかったとのことだったので、ほっとしました。
出身地の歌津地区は壊滅的な被害であり、実家の「マルエー」さんは、前述の通り

です。

 

Kさんは、震災の知らせを聞いて2-3日後に、歌津地区へ入ったそうです。
道路が寸断しているので志津川を通る45号線は通れず、山中を通る県道が歌津地区へ入ることできる道路だったようです。
ここを使ってなんとか現地たどり着いたとのことでした。

 

歌津大橋は途中で落ち、すでに商店街はなく、海が異常に近いとなぁと感じた
そうです。呆然としながらも、何枚かの写真を撮影したようです。
(写真を撮るのにも心が痛み、いいのかなぁと思いつつ、、、)

 

富谷町の自宅は、しばらくの間、Tさんご家族の一時避難場所になったようです。

 

さらにお話をお聞きしましたが、奥さんの方が大変だったようです。
実家(志津川)も被災し、娘さんの嫁ぎ先も被災し、イチゴも全滅したとのことで

した。

両家族の一時避難場所にもなっていたようです。
気丈に頑張っていますが、大変なことだと思います。

もう少しお話をお聞きすることが出来ればもっと良かったと反省をしております。 
(お聞きする私達がショックでその余裕は無かったのかも知れません。)


  お昼過ぎにお暇し、高速道経由で帰路に着きました、

 

8/30日追記

 仙台からの帰路の途中で再度お伺いしました。

 奥さんの実家のご家族は全員無事で、海の傍にあった釣具店は

 流されてしまったが、最近、高台の方に店を作り、営業を再開

 できたとのことでした。

 

 

      ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 

 以上、お見舞い訪問、南三陸町でした

 

 

 若干プライベートなことも掲載しておりますが、あくまでも、応援したいという

 一心ですのでご理解とお許しをお願いいたします。
  
 復興には、継続した支援が必要だと痛切に感じました。

 引き続きできることを模索したいと思います。